PHASE-05 Clergyman's March


アダムス・スティングレイの二ール・ラガンへの面会希望が適ったのは過剰投与の一件の、実に一週間を過ぎた頃であった。


穏やかとは言えない剣幕で詰め寄るアダムスに、二ールは悪びれもせずに応対する。


「何故薬物の量を増やしたかって? ふん、聞いてないのかい?

ボクはねえ、ドクター。あのガラクタ共にもう一回チャンスをやろうとしたんだよ。

慈悲深いだろう? 成果の上げられない強化人間なんて、廃棄されるのがオチなんだし。


薬の量を増やして、新型を上回る性能を一時的にでも引き出す事が出来たら大成果じゃないか?」



アダムスはそれを聞いてさらに憤る。


「だからと言って安易に薬物量を増やす等という愚行を、何故私に黙って進めたのです?

大体、この平和なご時世に戦闘に関する成果を求める必然性があるのですか?

貴方のやったことは、興味本位の人体実験に他ならない。」



「五月蝿いなあ、全く。

投与量1.5倍までは、君たちが定義する”適宜増減”の範囲内だろ?

そんなに目くじら立てて抗議される覚えは無い。


それに・・・”平和なご時世”だって? ボケてんじゃないの、Dr.スティングレイ。

あの執念深いコーディネーター共が、あれっぽっちの痛み分けのまま、戦争を止める訳が無いじゃあないか。

戦争はまた始まるよ。そして何度だって繰り返す。


有事の際に何時でも役に立てるようにしておかないで、何が兵器だ。

・・・・”人体実験”? まだそんな下らない事を言ってんの?

強化人間は定義上、MSに搭載されているCPUだ。


君は壊れたCPU一つ一つに同情して、捨てずに何時までも取っておくのかい?」



この議論は・・・水掛け論である。

何度と無く交わしてきた、”人間であるか否か”の討議。


この冷酷な所長に、人道を説くのは焼け石に水である事をアダムスは重々承知していた。



「・・・・・解りました。今回の件は所長殿にもお考えがあっての事と言う事で、多くは問わないように致しましょう。


・・・但し、γ−グリフェプタンは感受性が非常に高く、扱いのかなり難しい薬剤です。

経験を積んだ医師で無いと、処方の匙加減を判断するのは難しい。


だから、今後は増量・減量の支持を出す際は、私に話を通してからにしてください。

訓練量を増やす場合も、カリキュラムを変更する場合も然りです。


私は上から、正式にここの主任を任されている身なのですから。

もしもこれ以上、独断でこの様な事を続けるようであれば、私は包み隠さず連合本部に報告しなければいけない事になります。


・・・・何卒、宜しくお願いします、ラガン所長。」


この実験によって、何体もの試験体が犠牲になった。

それは決して許されざる事。


しかしこの所長には道理が通じない。それは今までの経験上良く解っていた。

だから徒に正論をかざして相手を興奮させるのは得策ではない。


ならば表向きは従った振りをするのが良いだろう。

それが”大人の対応”と言うものだ。


大事なのは、このような失敗を繰り返させない事。

そして今回の件で、後の二ール・ラガン罷免の為のカードの一つは手に入った。

所長にはああ言ったが、ガードナー補佐官を通じて、この件は秘密裏に本部にも報告してもらう心算でもいる。


内心、腸の煮えくり返るような怒りを感じながら、アダムスは二ールに極力穏やかに返答を返した。




二ールはいつものように、ポケットから糖分を過分に含んでいそうなキャンディを取り出し、口に放り込む。

そして充血した目でアダムスを睨みつけながら言葉を吐き出した。


「”お願いします”か。ふん、随分と汐らしいことだね。

ああ、解ったよ。今後は気をつける。


だけど・・・・・あんまり調子に乗るなよ、ドクター。

言葉に気をつけろ。ボクがお上の連中の顔色を伺って大人しくなるとでも思ってるの?


不用意にそんな脅しは口にするな。

君の首一つ飛ばす事なんてボクには簡単なことなんだからね。」




”ボクには”だって?

”ボクのパパには”の間違いだろう? 虎の威を借る狐め。


アダムスはそう心の中で毒付き、態度には出さぬようにしながら恭しく頭を下げた。

未だ辞めさせられる訳にはいかない。残された患者達がどんな目に合わされるのか解ったものではないのだから。



”話し合い”は一応の解決を得た。

アダムスはこの所長と、一時でも同じ空気を吸っていたくは無かった。

故に、一礼と簡単な挨拶のみをして、所長室を後にする。





二ールは、アダムスが去っていった場所に、怨念の篭った視線を送りつつ独りごちる。


「生意気な奴。どこまでも邪魔な奴だよ、あの男。

アイツを見てると本当にイライラする。


ああ、クソッ。オズ! オズッ!! 居るんだろ? とっとと入って来い、この薄鈍めっ!!」



腹の底に煮えたぎるマグマのような赤黒い泥が湧く。

二ールの執念深く、直ぐに沸点を振り切る怒りは、まさにそう形容するに相応しい。


廊下で待機していた護衛隊長のオズが、即座にその声に呼応し、部屋に入ってくる。

いつもは常に二ールの傍らに控え、彼の身を何時でも守れるようにしているオズではあるが、アダムスやガードナーと面会する時は少し離れた場所で待機する事が多い。


彼らの無礼な態度に、必要以上に過敏に反応してしまうからだ。

それを二ールは疎ましく思っていた。



「はい、申し訳ございません。

お呼びでございますか? 二ール様・・・」


傅くオズ・ウィザーズロッド・・・この忠実なる”義弟”に、二ールは軽蔑の眼差しを投げかける。


生まれながらにして権力を手にしていた自分と、どこの馬の骨とも解らぬ使用人の女の腹から生まれたコイツと、血が繋がっていると考えただけでも虫唾が走る。

そんな思いが、二ールの過剰とも言うべきオズへの仕打ちをエスカレートさせていた。



「当たり前の事を聞くな、この馬鹿。用も無いのにお前なんかを呼ぶかよ。

オズ、お前にまたやってもらいたい仕事がある。」



「はい、何なりとお申し付け下さいませ、二ール様。」



オズに与えられた役割、それは二ール・ラガンの道具となり、彼の願いを適える為の”魔法の杖”となること。

それがたった一つ、彼に示された生きる道。

断るという選択肢は最初から存在しない。



「・・・研究所に鼠がいる。それも飛び切り大きなドブ鼠が、ね。


オズ、気付いていたか? ボクたち、その鼠に色々探られてるぞ?」




オズはきょとんとした目で、その質問に返答する。


「は・・・? 鼠、でございますか?

それは・・・一体何を意味する比喩なのでしょう?

この研究所にスパイがいる・・・と?」



二ールはオズを見下した様に睨みつける。

やはり知能は高くても、人間同士の騙し合い・化かし合いを理解できるほど、人間の心理に長けている訳ではない。


この人形が、と声に出して呟く二ール。



「やっぱり気付いていなかったか。この薄鈍。


ロバート・ガードナーだ。あの下品な補佐官。


あの熊オヤジ、最初から怪しいと思ってたけど、どうやらパパのグループとは対立する何れかの派閥の寄越したスパイだな。


つい最近、研究所のコンピューターがハッキングされて、その形跡を消そうとした記録が見つかった。


やったのは推測だが・・・ガードナーの手の者だ。

あのオヤジが、怪しい格好をした部外者と密談してたって報告もあるし。

そもそもあいつもボクに対して反抗的だ。まるで口うるさい教師みたいにね。


パパの推薦で来たはずの補佐官の癖に、ボクのご機嫌を取らないなんて不自然だろ?」




二ール・ラガンは決して愚鈍な男ではない。

彼は基本的に誰も信用をしていない。故に、こう言った直感や観察眼は良く働く方だった。



「そ、それでは・・・ガードナーは最初から、二ール様を探る目的でお館様に近づいた、という事でしょうか?」



「ああ、そう考えるのが妥当だね。

忌々しい。パパは本当に人を見る目が無い。


しかも、ガードナーが一個小隊に相当するMS部隊を、近隣の谷間に隠しているという未確認情報すらある。

あいつら・・・・・闘る気まんまんみたいだよ?」



「一体、何の為にその様な・・・」


オズは、予想の範疇を超えた二ールの推測に動揺を隠せずにいる。

二ールはそんな彼の様子を見て再び苛立ちを露にする。



「ホントにお前は阿呆だな。想像力、て言葉知ってるかい? 少しは頭使ってみろよ。


例えばボク一人を誘拐して、パパを脅す心算ならMSなんて動かす必要は無い訳だ。


小隊を隠すよりも、何人かの手錬を率いて直接ボクを浚えばいい。その方が見つかる危険性も少ない。

エクステンデットに守られたボクを容易に誘拐できるとは思っていないけどね。


ボクかパパの不祥事を洗って、それをネタにパパを失脚させる。

これだと、そもそも武力行使は必要ない訳だ。こそこそと鼠らしくデータを陰で漁ればいい。

ハッキングがバレてる時点で、向こうは情報戦は大して得意じゃないのかも知れないけどね。


だったら、MSを用いてまで奪い取りたい代物って何だと思う?


決まっているさ。アレだ。


”女神像”だ。奴らはアレを欲しがっているんだ。」



「母さ・・・・”パラディオン”を・・・・」


そう、オズが”母”の代替品としているあのMS・・・あれは詳細すら知られぬままに、アーチボルト・ラガンが裏工作を用いて自らの所有物としたもの。


ブルーコスモス内部での盟主の座を巡る派閥争いが加速する中、”フリーダム”にも匹敵すると噂される謎のMSが存在するという事実は、他の候補者にとっては脅威に他ならないであろう。



「全く、パパも厄介な玩具を贈ってくれたもんだよね。

・・・でも、アレは渡さない。アレはボクの物だ。ボクが貰ったんだからね。



そこでだ、オズ。お前に仕事を与える。


ガードナーを調べろ。不穏な動きを少しでも見せたらボクに報告するんだ。

動かぬ証拠を叩きつけた上で、始末してやるよ。


親の七光りの青二才と侮ったのが運の尽きだ。反逆者共め。

ボクらを敵に回したことを後悔させてやるぞ。」



澱んだ眼光を浮かべながら、二ールはいきり立つ。

彼には自信があった。父親から与えられた”力”の全ては、どの様な相手に対しても決してひけを取る事は無い存在である、と。

エクステンデット部隊然り、新型のMS然り、だ。


だが、今回のバックにいる相手は敵対国ではなく、政敵だ。

武力のみで解決する訳には行かない。

それでは”ロゴス”の後ろ盾を保持したまま、権力を手にすることは難しくなる。

内紛のトラブルは、事無かれ主義の彼らに取っては妨げにしかならないのだから。


うかつに動いた方が不利になる事は明白。

だから必要なのだ。

兵を動かす大義名分が。




だが・・・・彼は気付いていない。


ハッキングの形跡をわざと残したのも、使者との密談をわざと目撃させたのも、ガードナーとジョーカーが打った芝居であると言う事に。

この世のあらゆる情報に精通するとすら噂される”ジョーカー”が、むざむざ侵入の痕跡を残す道理は無い。


これは計略に他ならない。


ラガンが私物化し秘匿している”パラディオン”と新型強化人間部隊を表に引きずり出す為に。

彼らも全く同じ理由で・・・兵を動かすタイミングを計っているのだ。



重要なのは、”どちらが正規の連合軍であるか?” そして、”どちらが反逆者であるか?”


単純な武力のぶつかり合いで勝った方が勝者になれる訳ではない。



これはジブリールとアーチボルトの代理戦争の意味合いも含めた闘いでもあるのだから。




二ールはいつもの如く、懐から既に依存症の様に求めるようになっているキャンディの包みを取り出して口に放り込む。


糖分が足りない。策謀を巡らせる時には大量の糖分を摂取する事を大脳が欲している。



「罪状は・・・そうだな。

”補佐官”の特権を利用して、上層部の情報を調べ悪用しようとした罪。


物的証拠がなければ、こちらで用意してやれ。


そう、証拠は探すもんじゃない。作るものだ。



それに”パラディオン”は正式にパパが所有権を握っている。

公的にそうなっている以上、奴が何を探ろうが無駄な事。



”反逆者”を始末し、ジブリールの罪業を上層部に知らしめる。

そして二ール・ラガンとエクステンデット部隊の力をロゴスの老人達に十二分にアピールする。


一石二鳥じゃないか? アハハハハハハ。」


二ールは笑う。


そう、あちらに不利な証拠を捏造する事など、造作もない事である、と彼は信じていた。

ジブリールはさて置き、その片腕たるチャンドラ・バイラバンには黒い噂が絶えなく、ロゴスの中には彼を良く思っていない者も多い。


ならば多少信憑性を欠く情報でも、上には難なく通るはずだ。


後は正当防衛の構図を作り出せればベスト。


向こうから攻撃を仕掛けてきた。だからこちらは返り討っただけだ。

そう主張するだけで良い。


それが真実である必然性もない。



だから問題は・・・・・・・


「過去のガードナーの戦歴を見せてもらった。

あの男、ふざけた態度を取ってはいるが、強さは本物のようだ。


だが、オズ・・・・・・お前なら間違いなく勝てるな?」



「勝てます。例え相手が誰であろうとも。二ール様に徒なすものは、私が一人残らず葬りさって見せましょう。」


間髪入れずにオズが答える。



「ふん、当然だ。そうでなければ今までお前を飼って来た意味なんて無い。


だが・・・・念には念を、だ。


”パラディオン”を在りし日の姿に戻しておけ。

何時でも実戦投入できるように、な。

恐らくはもう、奴らにアレの存在はバレている。もう隠す必要も無い。



そして新型だけではなく、旧型の試験体も記憶を洗い直し、ボクたちの手足としてもう一度出撃できるようにしておけ。

そして限界まで戦闘能力を引き出せるように・・・・・・γ−グリフェプタンの投与量を2倍にしろ。


1.5倍でもどうにか耐えられることは前回の実験で立証済みだからね。


それで少しはガラクタ共も役に立つことだろう。」



二ールは何の考えも無しに、強化人間達を過酷な状態に追いやった訳ではない。


薬物量を限界量まで投与し、その潜在能力を最大まで発揮させ、使い捨ての兵器とすること。



それを目指しているが故の暴挙であった。


死を覚悟した兵ほど強靭な戦力は無いのだから。



元より全員が生き残る必要は無い。

ガラクタは余剰すれば邪魔になるだけだ。

その地獄に耐え切った僅かな選ばれし者のみが自分の道具として有用であればそれで良いのだ。



オズはそれを聞いて控えめに進言する。

「恐れながら・・・・・あのDr.スティングレイは断固反対の構えを見せる事かと思われますが・・・・」



二ールは良い気分を台無しにされた、とでも言わんばかりに大きく溜息をついてみせる。


「オズ・・・・・お前はホントに・・・・・・いや、そうだな。ちょっと耳を貸せよ。クククッ。」


そう言って笑顔でオズを手招きする二ール。

当然、怒鳴り散らされる事を予想していたオズは面食らい、それからその招きに従って二ールの元に近づく。




二ールはオズの肩をグイッと掴んで自分の方に抱き寄せ、そして耳元ではっきりとこう呟いた。



「・・・スティングレイをれ、オズ。もうあの偽善者の顔を見るのはうんざりだ。」




オズは目を見開き、二ールの顔を見つめ返す。


「しかし・・・・・二ール様。奴は・・・ロゴスの幹部の血に連なる者。

それに正式にこの研究所の主任を任された身。

それを暗殺してしまうとなると・・・

ガードナーの罪状は作り出せても、そちらを正当化させるような理由を作り出すのは極めて困難かと思われますが・・・」



今、二ールの脳裏には、一人の少女の姿が浮かんでいる。


オズがこの様に自らの絶対の主の命に対して食い下がるのは極めて珍しい事だ。


それはアダムス・スティングレイの身を庇っての事ではない。


あの娘・・・・・・自分を友達だと言ってくれたあの屈託の無い、どこまでも真っ直ぐでとても綺麗な目をした少女は、アダムス医師の死をどう捉えるだろうか?

悲嘆にくれるだろうか? 怒りに震えるだろうか? 殺した私を・・・・・・恨むのだろうか?



そんなオズの内心を知ってか知らずしてか、二ールは平素とは全く正反対の猫撫で声でオズに声をかける。


「大丈夫だ。お前が心配するような事ではないよ。


・・・・・・お前も見たはずだ。


薬物投与に耐えられなくなった旧型の末路を。

発狂し、暴走し、そして射殺されていく惨めな失敗作。



スティングレイは、そんなガラクタ共にも分け隔てなく、一人の患者として接する事の出来る、聖人君子のような御方であらせられるそうだ。

ククククッ。


じゃあさ、こういうシナリオはどう?



”アダムス・スティグレイ医師は周りの静止も聞かず、正気を失った試験体に不用意に近づき、そして不幸な事故死をとげました”。



うふふふふふ・・・・アハハハハハハ。なーんて賢いんだろう、ボクは。


やっぱ薬物投与の増量は、正しい選択だったみたいだねえ。


ボクの手足となる忠実な道具を作り出し、そして邪魔者を始末する口実をも作り出してくれるなんて。」



二ールは眼光に狂気すら浮かべて愉快そうに笑う。



試験体の暴走に見せかけてアダムスの命を奪う計画。


それはこの上も無く有効な手段に思えた。

この研究所はいわば陸の孤島。


目撃した研究員が居たとしても、口止めをすれば事足りる事。

元よりあのスタンドプレイばかり繰り返す偽善者を庇う者など居ようはずが無い。



しかし・・・しかし・・・


オズは沈黙を続ける。



その様子を見て、二ールは笑い声を上げるのを止めた。


そして青ざめた顔で俯くオズの顎に手をかけ、強引に自分の方を向かせた。


「なあ、オズ。何をそんなに恐れているんだ?

お前は”完璧な”強化人間のはずじゃあないか?

お前に出来ない事なんて、本来無いはずなんだぞ?


自信を持てよ。」



二ールの声はオズの深層心理にまで入り込んでくる。


解っている。自分はこのお方に逆らう事など出来ない。


しかし・・・




二ールは薄笑いを浮かべ・・・・・そしてこう呟いた。


「知ってるぞ、オズ。・・・・・・・・お前、最近あの旧型の娘と良く会ってるそうじゃないか?

しかも偉く楽しげに。


人形が一丁前に・・・・・・いや、悪かった。

お前も人並みに色恋を覚える年頃か? ふふふふふふ。」



二ールの下卑た笑い声。


オズは驚いたように顔を上げる。



そう・・・・あの日から一週間、彼は警備の仕事の合間を縫ってエヴァの元に立ち寄る事を日課としていた。


時間の不足故に、絵のモデルになるという約束は未だ果たせずに居たが・・・他愛も無い会話を彼女と続ける事で、確実に彼の心は癒されていたのだ。


一時だけ”母”との対話を忘れるほどに。



二ールはオズのそんな表情の変化を見逃さず、勝ち誇った様にサディスティックな笑みを浮かべた。



「あの旧型に惚れてるんだろ? オズ。


ああ、勘違いするな。別に咎めてる訳じゃあない。


好きにやるが良い。しっかり仕事さえやってれば別にそんな事はどうでも良い。


ただな・・・それがお前の行動にブレーキをかける要因になってるんなら、コレは問題だな。


解るか? オズ。お前、あの旧型に遠慮して、スティグレイを殺すことを渋ってるだろ?」




・・・・・見抜かれている。

オズは絶望感から眩暈すら覚えた。



「ああ、解る、解るぞ。


あの旧型、随分とスティングレイにご執心のようだからなあ。

死んだら哀しむだろうなあ・・・・・・・


でもな、知ってるか、オズ。あの旧型、スティングレイの寝室にまで出入りしてるそうだぞ?


いくら強化人間とは言え、ボディは若い女のそれだ。


スティングレイもまんざらではないのだろうね。


何せ、奴に取っては、”試験体は遍く人間と同じ”だそうだから。


さぞや、お楽しみなんだろうさ。毎晩、毎晩、な。ククククッ。」



二ールの下劣な呟きを聞きながら・・・・・・オズは自分の中に芽生えた未知の感情を認識していた。


アダムスとエヴァの裸身が重なり合うイメージが頭の中をよぎる。

胸の奥が燃え盛るように熱い。

そして焼け裂かれるように苦しい。



「そうだよオズ。


スティングレイが居る限り、あの旧型はお前の物になる事は決して無い。

悔しいだろう? 嫉ましいだろう? ・・・あの”娘”が欲しいんだろう?


・・・・・・なら奪い取ってしまえよ。


スティングレイが居なくなってしまえばいい。

アイツさえ死んでしまえば、お前はアイツの元から最愛の者を引き離す事が出来るんだ。」



その言葉は、まるで蠍の針の様に、オズの胸の奥に突き刺さった。

或いは知恵の実を食べてしまえとそそのかす悪魔の声か?



あいつさえいなければ・・・・アイツサエイナケレバ・・・・アノヒトハ・・・・



二ール・ラガンの言葉は絶対普遍の真理。

長い間そう刷り込まれてきたオズには、その言葉はまるで”呪”の様に心に響く。



抗うことは出来ない。

むしろ主の命令を遂行せずに、ここまで黙して耐えた事が奇跡なのだ。



そして二ールは止めの言葉を吐く。



「この任務が終わった暁には・・・・・・ボクはお前を正式に”ラガン”の一員として迎え入れても良いと思っている。


パパにはボクからお願いしておくよ。


ボク達はこの世にたった二人の”兄弟”じゃないか。なあ、親愛なる”我が弟”オズ。


ボクの為にあの憎き偽善者を殺しておくれ。」



それを聞いて、光を失いかけたオズの両目から、とめどなく涙が溢れ出す。


「ほ、本当に? 本当に・・・・・・私を兄弟だと・・・家族だと認めて下さるのですか? 二ール様。」



「ああ、勿論さ。・・・・・二ール様なんて他人行儀だな。”兄さん”と呼んでくれても構わないよ。


パパの事は”父さん”。当たり前じゃないか。”家族”なんだから。


・・・・・・但し、全て事が済んでからだ。今は僅かな時も惜しい状況だからね。



なあ、オズ。


ボクのお願い、聞いてくれるよね?」



オズはその場にひざまづき、二ールの手の甲に口付けをしてこう呟いた。



「畏まりました。我が主マイマスター。非才なる我が身の全力を持って、必ずやその任務遂行してご覧に入れましょう。」



堕ちた。

完全にこの愚かな玩具はボクの操り人形だ。



二ールは心の中でほくそ笑む。


誰が兄弟などと呼ぶものか。お前のような下賤の身分の者を。

愚か者はエサを目の前にぶら下げてやれば直ぐに食いついてくる。


目的を達する為には自分の気持ちを偽るなど安いものだ。



完全に手中に堕ちた”魔法の杖ウィザーズロッド”の背中を、二ールは笑いをかみ殺しながら見つめ、そして見送った。




*****



業務を終えたアダムスは、いつも以上に疲れきった身体を休ませるべく、仮眠室へと歩を進めた。


疲労困憊となるのも無理は無い。


あの二ール・ラガンの指示した薬物増量の影響から、心身の平衡を崩す試験体たちが増大した為だ。

その治療に奔走し、昨日からロクな休憩時間も取れていなかった。


・・・・・それだけ身を粉にして治療を続けても、哀れな犠牲者達は次々にその幸薄き人生の終焉を迎えていった。



僕はまた・・・・助けられないのか?



再び弱かった昔の自分が顔を出そうとしている。


神様は何時だってそうだ。

もう少しで上手く行くと希望を持った瞬間に、己の足元から全てを奪い去っていくのだ。


まるで最上部に至るその瞬間に、使っていた梯子を倒してしまうかのように。




だが、アダムスは諦めなかった。


まだだ。

この足が動かなくなるまで、歩み続ける事は止めない。


一人でも多くの患者を救って見せる。

死んでいった者達の為にも。


僕は彼らに取ってたった一人の”主治医”であり”家族”なのだから。


そう心に固く誓った。




仮眠室のドアを開ける。


ベッドが不自然に盛り上がってるのが見て取れた。



「・・・・・・エヴァ。また潜り込んでいたのか? しょうがない娘だ。」


アダムスは苦笑する。


これまでにも何度かあった事だ。

初めて会った時もこんな状況だったのを思い出す。


彼女はこの部屋はアダムスが赴任するより前から使っていた。

だから自分にも使う権利がある、と舌足らずな口調で断固として主張していた。


夜中に抜け出してきてここで寝ている事も有る。

無理やり追い出してやろうと思うのだが、寝息を立てる彼女の幸せそうな横顔を見ていると起こすのが躊躇われてしまう。


結局いつもアダムスがソファで毛布に包まって寝る羽目になるのだ。




だが、その日は何かが違っていた。

エヴァの身体が、ベッドの中で小刻みに震えているのが見て取れる。



「・・・・? エヴァ? 起きているのか?

どうした、どこか具合が悪いのかい?」



そう問いかけて優しく毛布を捲ると・・・・・・顔面蒼白で、目に涙を浮かべたエヴァと視線が合う。


「せんせぇ・・・あたし・・・怖いの。」

消え入りそうな声で呟くエヴァに、いつもの快活さは無い。



鬱状態に入ったか?

アダムスは一見してそう診断した。


エヴァは躁鬱気質の激しい傾向があり、躁状態の時は辟易してしまうほどにテンションが高いが、鬱状態の時はほとんど言葉も発しない。


最近はそのどちらでもない安定傾向にあったのだが・・・

あのラガンの人体実験のような蛮行の所為で、この娘にも悪影響が出ているのかもしれない。



だからアダムスは慈しむ様にエヴァの隣に座り、優しく話しかける。


「エヴァ・・・どうしたんだい? 

怖い夢でも見たのかい?

先生に話してご覧?」




嗚咽を漏らし、歯を鳴らしながらエヴァは答える。


「・・・・・・怖いの。忘れていくのが怖いの。


あたし・・・思い出せなかったの。さっき。


せんせぇの名前と顔。

皆の名前と顔。


あたしの大切な大切な・・・・・家族なのに。」



記憶障害が不安を増強させているのか?


「大丈夫だ。忘れたりなんてするもんか。


直ぐに思い出したのだろう? ならそれは案じる事じゃない。

誰にでもある物忘れさ。

僕だって最近は良くする。もう歳なのかもな。」


そう言って慣れない冗談を飛ばすアダムス。

エヴァは幾分落ち着いた様だが、未だ震えは止まらない。



「・・・・・それだけじゃないの。


せんせぇ・・・・・あたしたち・・・・・みんな・・・・・近いうちに死んじゃうんでしょ?

死ぬってどういう事なのかな? 無くなっちゃうって事なのかな?


そしたら誰ともお話できなくなっちゃうんでしょ?

誰とも遊べなくなっちゃうんでしょ?


そんなの嫌だよ。折角皆と仲良く慣れたのに。


したい事だって・・・・・・未だ一杯あるのに。」



患者の前で何という無神経な言動を吐く者だ。


アダムスは眉を顰めて問い返す。




「・・・・・死ぬなんて言葉を簡単に口にするんじゃない。


誰がそんなことを言ったんだ?」



「・・・・・新しい所長。


朝礼の時に、お前達はどうせ長くは生きられない。明日にも死ぬ運命だ。


だからそうなる前にでかい花火を上げてから死ね、って・・・・・」




・・・・・二ール・ラガン!

どこまで性根が腐っているのだ?



アダムスは怒りを露にする。


やはり、あの男はこのままのさばらせて置いては行けない。

早急に対策を打たなくては・・・・・・





「・・・・・ねえ、せんせぇ。」


ふと、エヴァが、か細い声を出してこちらを見つめている。



「・・・・・お願いが有るの。」



「なんだい? 何か欲しいものがあるのか?

可能な限り便宜を・・・・・」


と言いかけて。アダムスは絶句する。


徐にエヴァが自分に抱きつき、両手を首の後ろに回して来たからだ。



そして彼女は耳元でそっと囁く。




「・・・・あたしを抱いて? せんせぇ」




予想外の言葉にアダムスは思わず、はっ? と間の抜けた声を上げる。


「おい、何をふざけているんだエヴァ。離れなさい。」


エヴァは離れない。



「ふざけてなんて無いもん。本気だよ?


あたしね、たくさん夢があったんだ。


画家になること。カウンセラーになること。保母さんになること。女優になること。


でもね? あたしもうすぐ死んじゃうんでしょ? 結局何にもなれないまま・・・・・何も果たせないまま死んじゃうんでしょ?


嫌なの、そんなの。


だからせめて・・・・・・一個だけでも願いを適えさせてよ。


”好きな人と結ばれたい”


その位、いいでしょ? 神様だって許してくれるよ、きっと。」




エヴァの今にも折れてしまうのでは無いか? とすら思える両腕が震えている。


彼女は・・・怖いのだ。

自分の思い描いた”未来”が、残酷なる死によって引き裂かれてしまうのが。



「エヴァ・・・・・・」


アダムスはそっとエヴァの身体を抱き寄せる。




けれど・・・・・・



脳裏をよぎったのは、在りし日の記憶。


かつて、彼が未だ研修医だった頃の先輩との会話。





『なあアダムス。俺たち医者にとって最も禁忌タブーとされている行為ってなんだと思う?』



『患者を見捨てる事。患者から治療費以外の金を受け取る事。患者を頭ごなしに叱り付ける事。・・・・思いつく限りなら他にもたくさんありますけど、

”最も”となると・・・・』



『お前らしい模範解答だな。・・・・だが、残念ながらハズレだ。いいか、アダムス。俺たち医者・・・とりわけ精神科医にとって最もやっちゃいけないこと・・・・

それは”患者と寝ること”さ。』



『・・・ハァ? そんなの当たり前じゃないですか? そんな、患者の弱さに付けこむような真似・・・最低ですよ。』



『ふふふ。お前は真面目だな。だけど、その最低の行為を平気でやっちまう奴もいる。患者にとっては医者ってのは、すがり付くべき対象。

それを恋愛感情だと勘違いしてしまう人もいる。これが結構厄介っつーか、医師と患者の領分を越えちまってる訳だよな?

自分の最愛の存在に平常心を保ったままメスを入れられる奴はそうそういない。これは外科の話だが、精神科はもっと顕著だ。

治療する相手は自分の愛する存在だったらどうなる? どうしたって患者の状態を贔屓目にみたり、思い込みで診断しちまったりする。

医者だって人間だ。そんなミスもあるさ。・・・・・だからこそ、絶対やっちゃいけない行為なんだ。』



『・・・・・患者に必要以上に情を移すな。有る程度の距離を置き、一線を引け。先輩の持論でしたよね。確かにそれは真理ですね。

我々は患者と向き合うときには常に冷静であらなくてはならない。生命倫理に関わる仕事ですし。』



『ふふふ。釈迦に説法だったかな? そうだ。お前の言ったとおりさ。確実にその患者を救いたきゃ、相手に恋慕なんかしちゃいけない。

どうしても付き合いたいんなら、患者の疾患が完治するまで面倒を見てその後にするか、若しくは医者を辞めるかだな。

それが俺たちに課せられた責任だ。』





それは極論だったのかもしれないが、あの時・・・・先輩が言った事は確かに正しい。

破ってはいけない不文律だ。


アダムス・スティングレイは等しく患者を救いたいと欲した。

等しく全ての患者を、だ。

だから、医者であり続ける事を選び取ったのだ。


・・・・・・いや、医者でなくても良かった。

ただ、”己”の全てをかけて、目に映る者全員を等しく・・・・・・



だから・・・・・



「・・・・・・エヴァ、大丈夫だ。


君は死なない。僕が死なせはしない。

だからもっと自分を大切にしなさい。


ここでその願いを遂げられたら満足なのかい?

君の未来にかける夢というのはそんなものなのかい?


だとしたら、僕は君を抱く訳には行かない。それは唯の自暴自棄だ。

君は生きる事を放棄しようとしている。それを許す訳には行かない。」





「・・・・・・・・・・・」




「もう一度、生きる為に立ち上がり、歩き出すんだ、エヴァ。

君にはそれが出来る。


君は誰よりも強い娘なのだから。」




そう、アダムスは等しく彼らを救うために、医者として歩む道を選んだ。

この先、恐らく自分の命が費えるまで、彼は医者であり続けようとするだろう。


ここで彼女の願いを適えてやるのは簡単だ。

しかし、それは同時に彼女の生きようとする強い意志を奪い取ってしまう事になる。


だから、今は未だ彼女の気持ちに応えてあげる訳には行かない。



それが適うのは・・・・・彼女が完治した時か、自分が医者を辞めるとき。


きっと完治する。その方法は有る。

彼は本気でそう信じている。


諦めてはいけない。生きる事を・・・・・歩み続けることを止めてはいけない。




エヴァはアダムスの首に固く巻きつけていた両腕を緩め、彼の顔を正面から見つめた。


一点の曇りすら無い視線。


初めて会った時、この人は何て哀しい目をしているのだろう、と思った。

自分が守って上げなくては、と奇妙な母性本能すらくすぐられたものだ。


でもこの人は変わった。誰よりも真摯に、自分たちを救おうと現実と向き合い、戦い続けてくれた。

自分はそんな彼を好きになった。だから、自分も頑張らなければならない・・・・と、そんな事を考え始めた。




エヴァはニコリと笑い、アダムスの左頬に口付けをする。


そしてひょい、とベッドから飛び降り、もう一度アダムスの方に向き直してこう言った。



「・・・・えへへ。振られちゃったね。残念。

でも、あたし・・・・・・生きるから。せんせぇより長く生きちゃうから。

もう決めた。そんでもって、画家になってカウンセラーにもなって保母さんにもなって女優にもなってやるんだ。


だからさ、もし、あたしが・・・・・・すっかり元気になったら、もう一回告白しても良い?」


満面の笑顔でエヴァはそう語る。


アダムスは同じく微笑みで返した。


「ああ、約束しよう。その頃には僕はもうすっかりおじさんになってるかもしれないけどね。

それでも良ければ、だな。楽しみに待っているよ。」



「愛に歳の差は関係無いのだ。もうせんせぇがハゲちゃってても、お腹出ちゃってても、寝たきり老人になっても全然OKっすよ。

えへへ。」



そう言って、エヴァはもう一度可笑しそうに笑い、アダムスに手を振った。



「じゃあ、またね、せんせぇ」


エヴァ・シュトリーはアダムスの仮眠室を後にした。


これまでには無い充足感を胸に抱きながら。



*****



仮眠室を後にしたエヴァは、廊下の向こう側から歩いてくる小柄な人影を視認し、声をかける。


「あっ、オズくんだ。ちゃーお。

最近良く会うねえ。元気ぃ?」



少年は、まるで葬式の日の様な神妙な面持ちでこちらを見返す。



「ん? 何? どうしたの? お腹でも痛いの?」



そう言って顔を覗き込んだエヴァの目を、オズは真っ直ぐに睨みつけ、激しい口調で返答する。


「・・・・・こんな時間に、一体何をしているんです? もうとっくに自由時間は過ぎてるはずですよ?」


何をしていたのか?

その答えはオズの頭の中では既に理解できていた。



この先にはアダムス・スティングレイが私室として使っている詰め所が有る。


逢って居たのだろう? あの男と。

試験体たちの居住区を抜け出して・・・・・こんなに長時間一緒の部屋で・・・・



彼はその感情を怒りと認識した。

彼の感じうる思考パターンに”嫉妬”という概念は存在しなかったからである。

存在しなかった・・・・・はずだ。


”愛”を知った”魔法の杖”の心は、より通常の人間の思考回路に近づきつつある。


だからこそ、この先の悲劇は招かれたのであろう。

例えそれが直接の原因でなかったとしても、引き金の一つであることに変わりは無いのだから。



「な、何? どうしたの? そんなに怒らなくったって・・・・・」


おどおどと相手の様子を伺うエヴァを更に激昂したオズがはねのける。


「私に話し掛けるなっ!?」



怒号は響く。


かつて、この常に自嘲気味な表情を浮かべた少年が、ここまで熱くなったことはあったであろうか?



「ご、ごめん・・・・・機嫌が悪いみたい・・・ね? 

そ、そうだよね? 私たち取り締まるのも、オズくんのお仕事だもんね。


直ぐ戻るよ。ごめんなさい。」


汐らしく謝罪するエヴァに、オズははっと気付いたかのように言葉を返した。



「あ、いえ・・・・・すみません。大声を出したりして。」



「んーん。こっちこそ。仕事中なのに馴れ馴れしくしてごめん。

・・・・・あたしの事、嫌いにならないでね? 

それじゃ、おやすみ、オズくん。」



オズは、このエヴァの顔をまじまじと見つめる。


これから自分がしようとしていることはこの娘を・・・・・・

いや、もう何も考えるまい。最早悩むまい。



自分にとって、二ール様の言葉こそが唯一の真理なのだから。

あの方の命令は絶対だ。

韜晦は失敗を生むだけだ。


ましてやこの任務が成功すれば・・・・・・自分は名実ともに、”家族”として迎えられるのだ。

生まれて初めての”家族”・・・


それはどの様な感覚なのだろう。暖かいのだろうか? 柔らかいのだろうか? 気持ちの良いものなのだろうか?



だから、彼は自分の行為が招く結果を、意識の隅に追いやり、任務遂行に必要な意識を完全にシャットダウンすることにした。


彼は感情の篭らない声で呟く。



「おやすみなさい、エヴァさん。」



そしてさようなら。

僕の初めて好きになった人。




*****



アダムス・スティングレイは仮眠に入る前にどうしても片付けて置きたい仕事を抱えていた。


次の所長への面会日を取得する事である。


急がないと、二ール・ラガンは近いうちにとんでもない事をしでかす気がする。

嫌な胸騒ぎがしていた。


早急に・・・・・手を打たなくては。



補佐官たるロバート・ガードナーへ内線を入れるべく受話器を取る。


彼は、信用に足る男だ。

例え腹に何か一物持っていたとしても。


ラガンの暴走を快く思っては居ないはず。

だから多少夜分遅くなってしまったが、所長へのアポイントを取るのと同時に、今後の事を彼に相談してみよう、と考えていた。



ボタンをプッシュしようとしたその時だった。


コンコン、っと控えめなノックの音。




「・・・・・はい、どうぞ。」


受話器を一旦元の位置に戻す。



この行為がまさか、数分後の自分の運命を決定付けるとは知らずに・・・・・・

この瞬間、彼は、何にも優先してガードナーへの電話を取り次いでおくべきであったのだ。



しかし、それは後の時間軸を知る者達のみに限られる後悔。

神ならぬ身である彼に、どうしてこの後の悲劇が予想しえようか?



入ってきたのは、オズ・ウィザーズロッド。


二ールの親衛隊の少年だ。



「失礼致します・・・・・Dr.スティングレイ。」



「ああ、君は・・・・確か、オズ君と言ったな?

何の用だね?」


「・・・・・・・・・・」


オズは黙して語らない。

不審に思ったアダムスが、沈黙に耐えかねて声を発する。



「・・・・・ああ、調度良かった。

ラガン所長へお目通り願いたいのだが、君の方から取り次いでもらえると助かる。

お願いできないかな?」



下を向いたままのオズが問い返す。


「・・・・・二ール様にどの様なご用件で?」



「いくつか質問したい事が有る。

薬剤庫の在庫が妙に増えてきてはいないか?


随分と一度に大量の薬品を取り寄せた様だが・・・・・


・・・・・いや、まさかとは思うが、ね。少々気になったものでね。」



もしも、もう一度前回のような暴挙に出る心算ならば、アダムスにも考えがあった。

既にラガン所長の罷免の為の物的証拠は揃いつつある。



二ールが好き勝手に人体実験の様な試験を行って、多くの試験体を死なせたのは紛れも無い事実。

全てカルテは保管してある。


明かに過剰な訓練を行わせたことも、γ−グリフェプタンを常用量を超えて投与した事も全て包み隠さず査問委員会でぶちまけるつもりで居た。

これだけの証拠があれば、如何にアーチボルト・ラガンの息のかかった裁判官が相手でも十分に勝訴できる自身があった。


保険としてガードナーを通じて、アーチボルトの敵対勢力達に強力を仰ぐ策もある。

・・・・・彼に得体の知れないバックが付いている事は痛いほど理解していたので、出来れば力を借りずに済ませたいところなのだが。





「・・・・・それを知ってどうするのです?」


オズはこちらと目すら合わせようとせずに返答する。




・・・何かがおかしい。


何と言うか、空気が次第に歪んでいくような、とても息の詰まるような不吉な感覚がした。



「どうするって・・・・もしも、私の考えている事が正しければ、これは大問題だぞ?

取り返しの付かなくなる前に、所長に進言を・・・・・・」



「その必要はありませんよ。ドクター。」


会話は突然途切れた。

オズがアダムスの発言を遮る様にそう呟き、こちらに顔と・・・・・・銃口を向けていた。



「・・・何だと? これは一体・・・どういうつもりだ、オズ君?」


その問いかけに、オズは怒りと悲しみと焦燥感と自嘲と怯えの交じり合った複雑な表情でこう応えた。


「これから死ぬ貴方に、そんな心配は必要ない、と言ったのです。Dr.スティングレイ。」



酷くゆっくりと。それはまるでスローモーションの様に。トリガーに掛かった人差し指が曲がっていく。




銃声が木霊した。




≪PHASE-06へ続く≫